「塙保己一賞」受賞者を応援します!~社会福祉法人聖明福祉協会理事長 本間昭雄さん~
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社会福祉法人聖明福祉協会 理事長 本間昭雄 (ほんま あきお)さん |
平成19年度大賞受賞者である本間昭雄さんは昭和24年、20歳のとき、医療事故により失明しました。一時は人生への希望を失い、苦悩の日々を過ごしましたが、視覚障害者の福祉に役立ちたいと決心。独学で点字を学習し、日本社会事業学校で1年間、福祉について学びました。
卒業後、昭和30年に失明者の福祉のため聖明福祉協会を設立。その後、約10年に及ぶ視覚障害者宅への家庭訪問事業等の活動を経て、土地の購入や資金集めに大変な苦労をしながらも、盲養護老人ホームを設立しました。昭和44年には日本で最初の盲大学生奨学金制度を創設。現在、多くの奨学生が、弁護士や大学教授、音楽家などとして、社会の第一線で活躍しています。
また、本間さんはさまざまな福祉関連団体の会長等を歴任、昭和63年には藍綬褒章、平成11年には勲五等瑞宝章を受章されています。
本間さんに、これまでの歩み、今後の活動などについてお聞きしました。
社会福祉法人聖明福祉協会(聖明園) Tel:0428-24-5700
| 塙保己一賞とは 県出身の江戸時代後期の全盲の学者「塙保己一」のように、障害がありながらも 顕著な活躍をしている方やその支援者の方を表彰するものです。 ※詳しくは同賞ホームページをご覧ください。
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「社会福祉法人聖明福祉協会」を設立されるまでの経緯についてお聞かせください。
本間さんは視覚に障害をお持ちですが、光を失われた当時のことをお聞かせいただけますか。
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社会福祉法人聖明福祉協会(聖明園) 所在地:東京都青梅市 昭和30年創立。現在は、28,000平方メートル超の敷地に各種盲老人ホームが創設され、現在約280人の方が入居されている。 |
眼が見えなくなったのは、医療事故がきっかけでした。19歳のとき風邪をひき、40度近い熱が出て、右腕に一本の注射をしました。その注射が神経に刺さり、右腕の神経が麻痺、右手が不自由になってしまいました。そしてその治療のために受けた3回目の大手術のとき、両方の眼底から出血をし、両眼が見えなくなりました。注射一本が僕の人生を大きく変えたのです。
失明した当初は、「この世には神も仏もない。」と、苦悩する日々が続きました。虚無的な気持ちになり、生きる希望も失いかけた時期もありました。ですが、時間が経つにつれ、次第になんとかして生きなくてはと思うようになりました。
そして失明から3年で社会復帰し、日本社会事業学校に入学。1年間、福祉を学びました。目の見えない人たちのために何かできないか、そういう漠然とした思いを抱いてのことでした。
視覚障害の方のために役立つ働きをしようと思ったきっかけ、そして「聖明福祉協会」という組織を立ち上げようとお考えになったきっかけはどのようなものでしょうか。
本間家は現在12代目。江戸時代には水戸徳川家の御典医を務め、近代医学の礎を作った医者の家系です。私は祖父から「お前も祖先の偉業をついで、多くの人を救え。そしてその名を竹帛(ちくはく)に垂れよ(書籍に載るような立派な人間になりなさい)。」と教えられて育ちました。そういうことが無言の遺伝子として僕の心の中にあったのだと思っています。
協会という「組織」を作ったのは、自分が悩み苦しんだようなことで困っている多くの眼の見えない人たちの相談にのり、社会復帰のお手伝いをしたいと思ったからです。
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| 本間さんの短歌集『百忍』。題字は今年5月に亡くなった麻子夫人が書いたもの。麻子夫人は生涯、本間さんとともに、医療・福祉の世界で尽力した。 |
組織作りをするにはいろいろな方の協力を得る必要がありますね。
はい。実は、家内が僕が国立病院に入院していた時の看護師なんです。家内も人のためになることは何でもやりたいということで、僕の考えを理解してくれました。学校卒業と同時に結婚し、二人で一緒に組織づくりのための活動を始めました。その当時から、現在につながる多くのボランティアや応援団づくりをはじめていったんですね。
「聖明園」についてお聞かせください。
軽費盲老人ホームを創られた経緯や現在の聖明園についてお聞かせください。
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建物全体は未来に羽ばたく鶴をイメージした設計。 ガラスにも鶴があしらわれている。 |
協会では、視覚障害者の方の家庭を訪問をしたり、進学の相談にのったり、眼科の先生とともに失明予防の巡回診療をしたりさまざまな活動をしていました。家庭訪問をしていくうちに、多くの人が「これから先、自分たちが年をとったらどうなるんだろう。」という不安を抱えていることがわかってきました。
僕は17歳のときに父親を亡くしています。ですから、年老いた父親の面倒を見てあげるということができなかった。その償いのためにも、同じ施設を創るならば、盲老人のための施設を創ろう、そう思ったのです。
本当はこんなに大きな施設にすることは予定していなかったのですが、盲老人のための施設はなかなかないでしょう?ですから、社会のニーズが多く、それを受けて少しずつ土地を買い足し、広げていきました。養護盲老人ホーム、特別養護盲老人ホーム2施設を開設し、現在280人近い方に入居いただいています。
はじめに軽費盲老人ホームを創られた際、土地や資金の面で大変苦労されたということですが、印象に残るエピソードがありましたら教えてください。
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| 園内は丸みをおびた設計。随所に本間さんの経験を生かした、目の見えない方が過ごしやすい工夫が施されている。 |
今も忘れないのは、土地の大半を所有する地主であった、東村山市の比留間康二(ひるま こうじ) さんです。私は玄関払いされる覚悟で伺ったのですが、決してそういうことはなく静かにお話を聞いてくださいました。日参するように訪問していたある日、比留間さんが「本当に本間さんが盲老人のための施設をつくるのか。」とお聞きになったんです。それで私は「はい。そうです。」と。そうしたら「本当に本間さんが創るのであれば、寄付をしよう。」と言ってくださいました。本当に私が施設をつくりたいと思っていることが伝わった瞬間に、その場で土地をくださると言ってくださった。もうこのときくらい感動したことはないくらい・・・本当にありがたいことでした。
また、もうお一方、忘れられない方がいます。株式会社文明堂新宿店の当時の社長でいらっしゃった宮崎正雄さんです。土地を買収する資金が十分になく、お金を貸してくださいとお願いに行ったら、即座に小切手を書いてくださいました。
今ここにこうして施設があるのは、本当にさまざまな方々のご厚意のおかげです。そして現在も当時の方々のご子息などが、引き続き後援者になってくださっています。
いろいろな方の支援、協力が活動を支えているんですね。
そうですね。何か壁にぶつかったとき、不思議なくらい必ず救いの手があるんです。
僕は目が見えなくなったことで、医者とは別の、福祉という世界で50年以上も働けたということを良かったと思っています。
テレビやラジオで私の話を聞いてくださった全国各地の方々、使用済みの古切手、書き損じのはがきを集めてくださった全国のみなさん…。多くの方々が、私の活動に共鳴してくださり、応援してやろうと。それが本当に大きな支えになりました。
「誠意を持って事に当たれば、必ず道は開ける。」私はいつもそう信じています。
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今年1月の授賞式で。 |
日本で最初の盲大学生奨学金制度を創設されていますね。
僕自身20歳の時、大学に行って勉強をすることもできないうちに失明しました。当時は目の見えない人たちが大学に行くことはままなりませんでしたが、時代が変わり門戸を開放する大学が増えてきました。それを受け、新しい分野を切り開きたいと思う人たちのために奨学金を創りたい、そう思うようになったのです。
これまでに奨学金を利用した学生は185人。先日博士号を取得した東大先端科学技術研究センター准教授の福島智(ふくしま さとし)君(15期生)をはじめ、多くの方々がいろいろな分野で活躍しています。この制度を創って本当によかったと思っています。
塙保己一賞を受賞されての御感想、今後の活動についてお聞かせください。
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| 本間家5代目が書いた『瘍科秘録 (ようかひろく)』(原本)。塙保己一と同時代を生きた祖先の著書。 「塙先生は江戸に国学の学校、私の先祖は水戸に医者の学校を創りました。だからどこかでつながりがあったのではないか、(今回の受賞は)先祖が見えない糸でつないでくれたんじゃないか、そんな風にも感じています。」と本間さん。 |
小学校の頃から知っている大学者塙保己一先生のお名前のつく賞の受賞者に決定したと聞き、本当に僕でいいんだろうかという思いで賞をいただきました。今は決してその名を汚してはいけないなと思っています。
今、僕は数えで80歳。いつまでも代表でいることはふさわしくありません。
後進の方々に席を譲って、そのかわりに死ぬまで、世のため人のために「福祉」という広い分野で貢献できれば、こんな幸せな人生はない、そう思っています。
最後にひとこと、メッセージをお願いします。
『善意無限』。「善意は無限だ。」というこの言葉が私は好きです。
人の幸せのために何かをできること、どんな小さなことでも「人の幸せにつながることをやれる」ということは、本当に大きな幸せだと思っています。どんな小さな親切でも良いのです。みなさんも周りの方たちに、少しでも親切な心を寄せてあげてください。そうして小さな親切が重なっていくと、きっと良い社会ができる、そう思っています。








